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お知らせ

みはら歴史紀行(1)

世代を越えて響き合い調和ハーモニーを奏でる『梵鐘』を中央に、周囲の三つの円で美原の『水』『緑』『広い空』を表し、右上には町の花『つつじ』配してシンボルマークとしています。
『梵鐘』は美原を発祥とする河内鋳物師の活躍を象徴しています。

 

美しい緑につつまれ、優しい風が吹きぬける美原町。お天気のよい一日、歴史紀行に出かけてみませんか。知らないうちに、日本の歴史が見えてくるかもしれませんよ……。  でもその前に、まず美原町の位置を確認してみましょう。それでは、美原町全体を見渡す事のできる旧消防署の望楼に登って、北の方向から右回りに見てみます。

北の方向を見ると、すぐ近くに、黒姫山古墳が見えます。そこからもう少し北側を見ると松原市が広がり、黒姫山古墳の墳丘の向う側に見える高層住宅のあたりは、その昔、丹南藩の陣屋があったところです。そのずっと向こう側には、かつて太閤さんの大阪城が見えたのですが、今は、ツインタワーのあたりと見当をつけておきましょう。  さて、少し右を見てみると、松原市と羽曳野市の境界にあ大塚山古墳が見えてきます。さらに右のほうには。羽曳野市の古市古墳群が見えてきますが、一基ずつ確認するのは少し困難なようですね。

そこからずっと東の方まで、羽曳野丘陵が犀風のように続き、南東の方向には、らくだの背のような二上山が、独特な山容をあらわします。やがて、葛城山と金剛山が見えてきますが、このあたりは、太平記の書くように、南北朝の戦乱がたびたび繰り返されたところです。耳を澄ませば、今から約六百年前の楠木勢と足利勢の合戦の声が、聞こえてくるようですね。美原町も、その余波をずいぶんと受けたようで、このころに建物を焼かれたという言い伝えが、町内の寺社で多く聞かれます。

さて、南の方向を見ると、大阪狭山市が広がり、ひときわ目立つ球形のタンクの左手前には、狭山池があります。小川をせき止めて造られたこの狭山池は、過去に何度も拡張工事が行われてきました。奈良時代の僧行基による改修や豊臣秀頼による片桐且元を工事奉行とした改修、また、昭和の大改修など、私たちの祖先は、水を確保するために、なみなみならぬ努力を払ってきたのです。また、狭山池の北東部、狭山東幼稚園のところは、狭山落の陣屋が置かれていたところです。

そこから西の方向、堺市へと目を転じると、こんもりと木が茂った、ひょうたんを半分に割って置いたような丘が、いくつも、見えてきます。百舌古墳群です。特に、仁徳天皇陵古墳は、その大きさからいっても目を引く存在です。

さあ、これで、美原町のまわりをぐるっと見渡してみたわけですが、美原町は、南東の方向が一番高く、北西の方向が一番低いことに、お気付きになりましたか。また、黒姫山古墳が、百舌古墳群と古市古墳群のちょうど中間にあることにも。さらに、町内のあちらこちらで、水面が光を反射させていたでしょう。大きなものだけでも一つ、二つ……、両手では数えきれないくらいのため池があったはずです。これは、もともと、美原の地が、水利の便が悪く乾燥しがちの土地でしたので、稲の成長期に必要とする水を確保するために、造られたものなのです。平安時代に、他の土地と同量の収穫を確保するためには、他所の二倍の面積の土地を貰わないとだめだと訴えて認められた、ということが記録に残っているほどで、狭山池築造もため池が多いのも、水のことをなんとか解決しようとする古代の人たちの汗と智恵の結晶なのです。  さて、美原町というまちのイメージも、だんだんと頭の中に浮かんできたのではないてしょうか。それでは、美原町内の歴史遺産を、年代順にたずねていくことにしましょう。

次回は旧石器時代~古墳時代

美原町発行MIHARAより転載