平松寺について
大阪龍山講の由来
開祖翁誉大仙禅定門師は今から約三百十年前の宝永元年(1704年)に大阪の浪速で米穀商を営む家に生まれ、通称源兵衛と言いました。若い時から信仰心が厚く毎年大峯山へ参っていましたが、三十二歳の時、米屋の店先で突然に眼病を患い盲目と成りました。平素から信仰していた役行者と弘法大師に平癒の祈誓を立て、家族を残し、両手の杖を弘法大師と役行者と思い雪中登山を決行し、山上ヶ嶽を目指しました。吉野山から大天井・御番関を経て蛇腹に至った時に寒さに体の自由を失い仮死状態になりました。しかしその時、一頭の金色の龍が現れ鐘掛けの方向に登るのを見て、金龍を慕ってようやく本堂にたどり着きました。そして、翁誉大仙師は戸閉中の本堂にて翌年の戸開けまで参籠し、毎日、眼病平癒の祈願をしました。するとふと気が付くと奇跡的に両目とも開眼を得ました。
蛇腹を見下ろす
鐘掛けを仰ぐ
その様な事で、そのお陰を皆様と分かつ為、大阪へ下向し、そして、素晴らしい霊感を得られた事を人々に感謝し報いる為に講名を龍山講社と名付けて、大阪南区島之内大宝寺町に行者堂(龍山院)を建立し、毎月七日(役行者の御縁日)と二十一日(弘法大師の御縁日)には講中の安全祈願の護摩供を修行しました。 それ以来、毎年大峯登山を行い、同行の者を先達しまたが、安永七年(1778年)七月二十九日に御年七十四歳で示寂されました。今はその十二代目です。 昔は船場島之内の商家の旦那衆や大峯山洞川の山林に関係の有る西横堀の材木商を営む旦那衆。天明五年(1785年)十二月に徳川政府へ御用金五千両を出した両替商木挽南町の平野屋善右衛門とその妻女で九十歳の天保十一年(1841年)に三尺角の菱形天蓋燈籠を行者堂に奉納した女性等、女行者が居たくらいで当時は熱心な講員がたくさん居られた様で大変盛んでした。
大正6年出立の先達
昭和8年 行者堂前にて
その後、明治初期には大峯山上本堂下に妙覚門を建立(七十五靡の一つ)しましたが、長年の風にさらされ傷みもひどく成った為、昭和五十一年六月再建いたしました。そして、明治大正昭和の世話方の御芳名を柱に刻み記念しております。 龍山講は大阪と大正末頃に別れた京都の二団体が有り、戦前まではかなりの盛大な講でした。また、戦前の大峯登山出立の朝は午前五時には行者堂で出立の護摩を上げ、出立の御酒を頂き、徒歩で、今で言う近鉄の上六まで見送りの家族と共に駅まで歩き、乗車の合図には法螺貝を吹いて別れるのが出立の決まりでした。その頃は、三日間の山で二日後の下向時刻には必ず駅まで迎えに来ているしきたりでした。 昭和二十年三月に行者堂も空襲に会い龍山講も南河内の平松寺で仮遇する事に成り今日に至りました。今では講員も少なく成りましたが平松寺や阿倍野区西田辺の龍山院で活動している次第です。
平成八年六月
理準院 辻 諦應 八十三歳
明治初期の妙覚門
昭和51年再建の門
19170327平松寺住職 龍山院院主 堀内寛立編集